「1998年の記憶」

 私は当時も今と変わらずカラワンの工場勤務でしたが、違っているのは現在はチカランに住んでいますが、当時はジャカルタから通っていたのです。


 今と違って高速道路は空(す)いていました。毎日毎日110キロ以上のスピードでぶっ飛ばしていて「なんでこんな遠いところにわざわざ通っているんだろうなぁ」と思っていました。


 1998年5月12日ジャカルタで暴動が始まって以来、それはおさまるどころかどんどん地方に広がって来ており、私は常に工場を暴徒から守ることを考えていました。

 結局カラワンには誰も来なかったのですが、当時はバンドンから暴徒が押し寄せて来るという噂が広まっていました。

 その根拠は近くのチカンペックにスハルト大統領が韓国と共同開発でつくらせた国民車「TIMOR(ティモール)」の大きな工場があったのでそこが襲撃されるというもので、ジャカルタではスハルトが関係するBCA銀行、スーパーマーケットGOROなどが集中的に襲撃・略奪・放火されていたので一応の信憑性がありました。

 

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 実際に戒厳令が出たり、いずれ内戦に発展するかも知れないという極度の緊迫感に満ちた日々です。
 ジャカルタの友人知人が次々と航空券を入手してインドネシアから脱出し、さすがに私も心細くなっていました。
 それでも戻って来た時に工場が焼失していたらと思うと後で後悔しないためには残らないといけないと思いました。

 

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 暴徒が工場に押し寄せた場合どうやって防げばいいのか?

 警備員は恐らく逃げるだろう、いや逃げないと殺されるからそれは当然だ。

 軍隊に頼んで「戦車」を会社の前に待機させるか?

 それしかないと思い、近所の会社の方に電話をかけて費用を調べたりしました。

 軍人に警護を依頼したことのある日本人の方から「用件が終わった後も金を要求され続けて難儀した」と聞き、結局は断念。

 その方も次に電話したら「あ、私も明日の便で帰国することにしたから」と言われ、受話器を持ちながらしばし呆然としたことを覚えています。

 

 

 同じ工業団地にJVC(旧日本ビクター)があり、工業団地の会合で知り合った当時の古林茂社長から突然お電話をいただき、「宮島さんどうするの?」と訊かれました。

 会合は工業団地の管理事務所の主催でしたが、古林社長は立ち上げに四苦八苦する他者を慮って、自社の取り組みなどを気前良くお話ししてくださり、どの話も大変参考になるものばかりでした。賃上げなどは非常にナイーブな話ですが、近隣の大企業が往往にして基準になるということをわきまえていらっしゃり、本当に助かったものです。

 「私は帰国せずに…残ります」「どこに泊まるの?」「工場に泊まろうかと思ってます」

などという会話のあと、

 古林社長は、「我々は十数人の駐在員がいるけど全員残ります。住居はそれぞれジャカルタにあるけどカラワンのサービスアパートに泊まります。宮島さんもごいっしょにどうですか?」というお誘いがありました。

 

 突然の提案に答えを窮していると「こういう時は集団行動ですよ。何かあれば我々は松下電器グループなのでヘリが救出に来ます」とピシャリ。


 実は内心でもし内戦になったらどうなるんだ?という不安があっただけに、これには即座に「はい、お願いします」という言葉が口から出ていました。

 


 おそらく個人企業でどこにも頼れない私の状況を察して、咄嗟に救いの手を差し伸べてくださったのだと思います。

 それが、どれだけありがたかったか…。

 正直、切迫した身の危険を感じる日々でした。

 

 その後、私はインドネシアで仕事、生活する人たちへのサポートするボランティア活動に情熱を注ぐことになりますが、きっとその時の古林社長への「感謝」がベースにあるのでしょう。


 今でもその時の古林社長の優しさ、器の大きさを思い出すと胸が熱くなります。

 

 

 

 

宮島伸彦 1998年よりカラワンのスルヤチプタ工業団地にある工場で勤務。自称「半分日本人」。